没後約50年ブルース・リー伝の驚きの新事実!

 

ま、いっかけんhttps://twitter.com/maikka0511
ブルース・リー研究家のま、いっかけんです。幼少の頃、ドラゴンと言えば、倉田保昭さんだと思っていました。

2019年に発刊されたマシュー・ポリー著「ブルース・リー伝」はなんと約600頁の大著です。値段も5,400円税別という価格
買うのも読むのも大変ですが、それに見合う厚みのある情報でした

ブルース・リーざっくり伝

ブルース・リーは1970年代に世界に一躍カンフー映画ブームを巻き起こした伝説のスターでした。

戦後、アジア系ではじめて世界的な映画スターになりました。
「ドラゴン危機一髪」「ドラゴン怒りの鉄拳」「ドラゴンへの道」など生前の主演作はわずか4作。

1973年「燃えよドラゴン」が世界的なヒットになった時、既に彼はこの世にいませんでした。
わずか32才の若さで謎の死を遂げます。

大著「ブルース・リー伝」で知った驚きの新事実!

ブルース・リーの人生について私の情報はリンダ夫人著の「ブルース・リー・ストーリー」で止まっています。

 

この本はあくまで、夫人から見た夫ブルース・リーが描かれています。

今回の「ブルース・リー伝」は著者マシュー・ポリーの徹底的な聞き取り調査で、ブルースを多角的にとらえています。

そして、なにしろ本人が若くして亡くなっているので、はっきりと分からなかった彼の経歴、足跡が明確にあらわされています。

ブルース・リーに限ったことではないでしょうが、死後約50年も経過していて、ごくごく親しい人からの聞き取りにも勘違い、齟齬があります。

その一つひとつを生きている証言者に複数聞き取り調査し、その裏を取り、残された書類も目を通しているのがうかがえます。

伝記とはこうして書くものなんだなと、著者の取材姿勢に頭が下がるばかりです。値段が高くなるのもしかたがない!

その中でも私が今回はじめて知った新事実を以下に紹介します。

その1ブルース・リーには白人の血が流れていた!

ブルースの曾祖父はユダヤ系オランダ人。
香港の資本家のユダヤ人だったボスマンーホートン一族の一員でした。

ブルースのアジア人離れした目鼻立ちの整った容姿。
西洋的な文化を躊躇なく取り入れる精神性はここから来ていたんですね。

事実があまり公にならなかったのは黄色人種のヒーローたるブルースに白人の血が混ざっているのが知られると、イメージダウンにつながると考えたからかもしれません。

その2・ブルース・リーはシャロン・テート事件の身近にいた!

タランティーノが監督した映画「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」ではブルースもスティーブ・マックイーンもほんのちょい役でした。

「チャイナタウン」「戦場のピアニスト」で知られる映画監督ロマン・ポランスキーとその妻シャロン・テートはマックイーンが中心のグループの一員だったのです。

日本の芸能界でも、「ムロ会」とか「春菜会」とか中心になるスターがいて、仲間が作られています。

ブルース・リーもそのグループに所属していて、スターや監督・脚本家たちのクンフーのプライベートコーチをしていました。

シャロンの出演したスパイ映画でブルースはアクション指導を担当。ポランスキーはプライベートでカンフーを教える仲でした。

そして、今も悪名が残る忌々しい悪夢のような事件が発生。

いわゆる「シャロン・テート」事件が起こります。

妊娠中のシャロンがむごい殺され方をしてしまうのですが……犯行当時ポランスキーは欧米で映画を撮影中で留守でした。

犯行現場には犯人のモノと思われる眼鏡が落ちていました。

悪いタイミングの時にブルースは眼鏡を壊していました。

「グリーンホーネット」の運転手カトー役で一躍脚光を浴びたブルースでしたが、その後2年間役に恵まれず企画したドラマや映画も頓挫。

「俺はスターになれる!」
と確信したのかちょっと贅沢な生活をしていました。が忽ち収入が途絶え困窮に……眼鏡を買い換える金銭的余裕も無かったのです。
(このあたりはリンダ夫人の「ブルース・リー・ストーリー」に詳しく書かれています)

ポランスキーはもしや犯人はブルースではないか?

と疑いました。眼鏡を買い換える時期がタイミング悪すぎ!

カンフーのプライベートレッスンの後、ポランスキーは眼鏡をプレゼントいたいと呼びかけ、ブルースを眼鏡店に誘います。

ブルースの選んだレンズは犯人とは別物でした。ポランスキーはその時疑っていたことをその後も言わなかったようです。

その3・ブルース・リーは自ら企画した映画の再オファーを断っていた!

前述の通り、ブルースは「グリーンホーネット」以降、自ら映画やドラマを企画しますが、どれ一つ実現しませんでした。

弟子のはずのスティーブ・マックイーンにも制作の協力を断られました。

しかしジェームズ・コバーンや脚本家のスターリング・シリフィアントは一緒に映画を撮ろうとして海外にロケハンに行くほど、彼の企画に全面協力したのです。

しかし、やはりアジア系俳優が主演するのは壁が厚すぎた!

企画した「燃えよ!カンフー」は白人俳優の主演で制作されました。
手酷い挫折を味わったのです。

その後、ブルースは香港に戻り、主演映画がヒット連発。
その余勢でハリウッドから逆輸入されたのが「燃えよドラゴン」につながります。


ブルースの成功を受けて、ついに企画実現の準備が整ったと、再びコバーンとシリファントから再オファーがあったにも関わらず……

「もう俺のギャラは上がってあんたたちには払えない」
と断ったそうな……


人生を賭けてでも実現したかったはずの企画です。

香港に渡って地位と名声を手に入れたブルースは既にかつての夢見る無名の東洋人では無くなってしまったのでしょうか?

著者ポーリーはバーナード・ショーの名言を添えています。

「人生には二つの悲劇がある。一つは願いがかなわぬこと、もう一つはその願いがかなうこと」

ブルースの急逝によって、全ての企画は棚上げされました。

中国人が主人公の西部劇「ウォリアー」が、約50年ぶりに、愛娘シャノンの企画で製作されました。

これは生前、ブルースが温めていたテレビドラマの企画の一つです

アクションもさることながら、エロスもたっぷりの作品になっています。

その4・ブルース・リーの死因は?


ブルースの急逝は長い間、謎に包まれたままでした。

忍者暗殺説、ステロイド説、覚醒剤説、ありとあらゆる説が流布しました。

本著で著者ポーリーが過去の死後の診察結果を元にした結論は、あまりにも意外なものでした。

「熱中症」

今では耳慣れたこの症状も、ブルースが亡くなった時代にはまだ医学的に解明されていませんでした。

亡くなった当時、ブルースは何日間も眠れないまま撮影を続けて疲労困憊。体重が10キロ以上落ちて、痩せこけていたといいます。

その状態で、その年の香港は異常な暑さが連日続いていました。

もともとブルースは暑さや寒さの気温の変化に弱くて、よく体調を崩していたそうです。

体調管理にもう少し気を配っていたら、働きすぎに注意していたら、もっともっと活躍できたかもしれません。

ハリウッド映画の歴史も、格闘技界の歴史もまた変わったものになっていたでしょう

まとめ


ブルース・リーを知った頃には小学生低学年でしたが、いまやすっかりブルースより20歳も年上のおっさんになってしまいました。


ブルースが老荘思想を格闘技の戦略論としてだけでなく、生きる哲学として実践していたら、こんなに生き急ぐことは無かったのに……と思ってしまいます。

彼の分も悔いの無い人生を送って生きたいです。

 




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