その文体は、まさに、
「まるで名人が手打ちした麺のように」
するすると身体の中に入って来て……
多少長くても全く苦にならず、ベッドの上で寝転がりながら気楽な気持ちで活字を追いながらも、
登場人物たちはまるで長年の知己の人のように感じ、
物語の世界に引き込まれ、
「気がつくと、終わりのページまで来ていて」
詠み終わった後のなんとも言えない余韻と、登場人物と離れ離れになる一抹の寂しさとに包まれて、また同じ作家の違う作品を手にとりたくなる。
まことに中毒性のある作家なのだ。池波正太郎は。
その池波正太郎本人が
「もっとも愛着のある長編」
と言ってはばからぬ。
それが『その男』だ。
これが江戸の男の成長論・人というものは獣にすぎないんだよ
池本茂兵衛が杉虎之助に施した剣術修行は
- 毎晩、師匠池本茂兵衛にあん摩をしてもらう。歪んだ身体を整体し、柔らかくする。弱っていた身体を癒やして丈夫にした。
- 整息の術。海辺に行って腹式呼吸の練習。
- 真剣で虎ノ助に斬りつける。身体は傷だらけになるが、斬りつけられても恐れない強い胆力をつける。
- 眼力をつける。(ここは具体的方法は記述なし)
というものだった。ここまでは普通の剣術モノにもある修行エピソードかもしれない。6番目の修行法が実に変わっている。
池本先生、虎ノ助に小遣いを渡し、毎晩遊郭通いをさせた。なぜなら、
「女を抱くのも、剣術修行の一端ですから……」
なぬ! ジェダイの騎士が聞いたら卒倒しそうだ。
虎ノ助曰く、
「女の体を抱くときの、さす手ひく手が、たいせつな稽古となり、吐く息、吸う息も整息の鍛錬にもなるのですよ」
とんでもない奴だ。と思われるかもしれないが、テレビドラマ「鬼平犯科帳」「剣客商売」では当然語られてはいないが、
戦国時代であろうとはたまた現代であろうと、池波正太郎ワールドの住人が終始一貫している哲学だ。
池本茂兵衛は虎ノ助に語る。
「世の中がいかに変わろうとも、人間の在り方に変わりはない。人というものはな、いまだ獣なのだ」
いかに文明が発展しようとも、人間の中身は有史以来ちっとも進化していない。だから生きるためなら平気で他人を殺し、搾取する。
「お前は、時世のながれが、いかに激しく変わろうとも、なおさらに変わらぬ人として生きてもらいたい」
師匠の言葉を胸に刻んで虎之助は動乱の幕末・明治維新後の日本を生き抜く。
官軍賊軍にどちらも属することなく、一生活人としての己を全うしていく。
善や悪、聖や俗などの二元論に振り回されない。鬼平がよく言う「人というもの、善事をなしながら悪をなし、悪をなしながらまた善をなすものだ」清濁併せ呑む気風なだ。
ところがアナキンは感情を抑えるように指導を受けるが、抑えようとすればするほど逆に感情が激しくなって溺れてしまう。
くしくも「その男」の杉虎之助もアナキン・スカイウォーカーも、師匠に死なれ、愛妻にも先立たれる展開が同じだ。だけど虎之助は平静を取り戻し、アナキンの心は乱れまくり、最終的にダークサイドに陥ってしまう。
師匠が聖人君子すぎるオビ=ワンよりも池本茂兵衛だったら、ダース・ベイダーにならずにすんだのに……
世界観がリンク「人斬り半次郎」主役・桐野利秋
「その男」には、池波正太郎のもう一つの名作「人斬り半次郎」の主人公・桐野利秋が登場する。
池波正太郎のあとがきによれば、当初、「その男」の構想を先に考えていたとか。ところが、「人斬り半次郎」の企画が先に実現してしまったという。
人斬り半次郎の人柄「その男」でも実に憎めないキャラクターで杉虎之助に絡んできて、最終的には西南戦争にも巻き込まれていく。
桐野利秋や「西郷ドン」西郷隆盛と絡んでいくわけだが、根っからの江戸人である杉虎之助となぜか馬が合うのだ。池波正太郎も薩摩人に対して好感を思っている。
果たして実際の薩摩人がどうたったのかは知らないが、腹に一物もない爽やかな人柄の桐野や西郷だったらさぞかし持てただろうなと思う。
池波正太郎の見解が当時の江戸の人を代表をするものならば、江戸幕府を終わらせて、明治になっても最終的には西南戦争で朝敵になっても、上野に西郷隆盛銅像が立っている理由がわかるような気がする。
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