
「運命の出会いがある」という刷り込みは他の嘘よりたちが悪い説
新開監督はデビュー作から終始一貫。男女が離れ離れになりながらも。お互いに思い続けてついに結ばれるーーというドラマを作り続けています。
まさに往年の名作「君の名は」のような感じなんですが、私は「運命の人と結ばれる」という展開をこの作品ではじめて見ました。
宮崎駿監督初監督作の「未来少年コナン」です。
はじめて出会ったコナンとラナがただひたすらお互いを思い合っていくという物語でした。
あとで考えてみるとこの作品に人生の根底の部分でものすごく影響を与えられていたのに気が付きました。
それまで突然宇宙人と合体して巨人に変身できたり、悪の組織に手術を受けて改造人間になったり、巨大ロボットを操縦できるようになったりする物語ばかりでした。
でも、ちょっと成長すると、いくらおバカな小学生でも自分はウルトラマンにも仮面ライダーにもなれないことに気が付きます。
ましてや巨大ロボットが目の前に出現というのもさらに遠く感じます。
「柔道一直線」のように地獄車を生み出すために、石段から転がり落ちてたら一発で死にます。
それよりちょっと前に流行ったスポ根漫画では、生身の人間が常人ではこなすことのできない死ぬ気の猛特訓を経てくりだす必殺技が魅力でした。
こちらは地獄の訓練が最初から無理なので、所詮自分にはできっこないとあきらめがつきます。
ところが「コナン」が提示した運命の人と出会って末永く結ばれる――という物語は、大人になっても、ずっと消えることのない思い込みとなって残りました。
子供向けのアニメのフィクションはいずれは覚めるんですけど、この「運命の人がいる」という幻想は証明できないだけに、引きこもらない限り人は限りなく人とすれ違っているはずなのでなかなか捨てられない幻想ですね。
とくに、新開作品は、一つのフィクションに対して、展開する環境や社会状況や出てくる料理でさえ、細部に渡ってリアルに貫かれているので、
「こんなことが自分にも起こるかもしれない……」
というリアル感が貫かれているのです。
映画のラストで涙が止まらなかったという息子に私はちょっと心配になってしまいました。
「またここに運命の人を信じて結婚が遠のく奴が1人生まれた」
「崖の上のポニョ」はしばらく運命の人よりも、【生きるとはなにか?】というテーマが続いた宮崎アニメで久々に、「ソウスケすき!」とひたすら運命の人を好きになって貫いていくという原点回帰の作品でした。
ガーン!アドラーは運命の人を完全否定しています。
ちなみに「嫌われる勇気」で有名になったアドラー心理学は「運命の人」を完全否定しています。
運命の人を待っていたら、目の前に本当の大切な人がいてもスルーしてしまい。
関わらない言い訳を運命の人のせいにしてしまうからだそうです。
自分にもなんだか身に覚えがあって、耳が痛い話です。
運命 とは、 自ら の 手 で つくり上げる もの なの です。 われわれ は 運命 の 下僕 に なっ ては いけ ない。 運命 の 主人 で あら ね ば なら ない。 運命 の 人 を 求める のでは なく、 運命 と いえる だけの 関係 を 築き上げる の です。
岸見 一郎; 古賀 史健. 幸せになる勇気
悩める青年に哲人はそう答えます。青年がじゃ、具体的にどうすればいいのか尋ねると、
踊る の です。 わかり も し ない 将来 の こと など 考え ず、 存在 する はず も ない 運命 の こと など 考え ず、 ただ ひたすら、 目 の 前 の パートナー と「 いま」 を ダンス する の です。
岸見 一郎; 古賀 史健. 幸せになる勇気
今回の教訓
目の前の人を大事にしよう!!
